北海道大学の対応

1、北大、レーン夫妻と宮澤弘幸に異なる対応

1941年12月8日と27日に検挙された北海道帝国大学の軍機保護法関連冤罪被害者は、ハロルド・レーン(懲役15年)、ポーリン・レーン(懲役12年)、宮澤弘幸(懲役15年)、渡邊勝平(懲役2年)、丸山護(懲役2年)、黒岩喜久雄(懲役2年、執行猶予5年)、石上茂子の7人。嫌疑なしとして釈放された石上茂子以外はカッコ内の有罪が確定した。服役中のレーン夫妻は、1943年9月、日米交換船でアメリカへ送還された。

当時、北大には学生の思想対策等を担当する「学生主事」、および軍の配属将校がいて、治安当局や憲兵隊とも連絡を密にし、大学内を監視していた。こうした状況下であったにしても弾圧された教官や学生に対して、何らの救護対応もしなかった。さらに拘置中のレーン夫妻に対しては一方的に教師契約を解約し、宮澤弘幸に対しては退学願を受理する形で除籍し、一切の責任を回避している。

一方、宮澤弘幸への判決では一審、大審院を通して「北海道帝国大学工学部学生」と明記されており、北大の退学処理と矛盾している。果たして「退学願」が全くの自由意思による有効なものであったのか否か、「退学願」そのものへの疑念がいまなお残されている。

レーン夫妻については、戦後、北大内にハロルド・レーン再招聘の声があがり、1951年の初め、北大に戻った。ハロルドは再任後1963年まで北大の英語教師を勤め、1960年に国から勲五等瑞宝章が贈られ、1963年夏、70歳で死去した。ポーリンも、北海道学芸大学(現・北海道教育大学)の教職につき、ハロルド死去の3年後、73歳で亡くなった。夫妻は、札幌市内の円山墓地に眠っている。こうして夫妻については、戦後、ある程度の名誉回復がなされたと言えるかもしれない。

一方、宮澤弘幸については、戦後の北大も長い間、無視してきた。北大正史『創基80年誌』(1965年)、『百年史』(1980-1982年)のいずれにもレーン夫妻の強制送還については申し訳程度に触れているが、宮澤・レーン冤罪事件については何の記述もない。

この間、1980年代に入って、自由民主党が画策してきた「国家秘密法」制定に反対する運動が盛り上がった。宮澤弘幸の妹・秋間美江子さんの夫・浩さんは『戦争と国家秘密法』(上田誠吉著)を読んで、著者の上田弁護士に、妻の兄・宮澤弘幸がスパイ冤罪被害者であることを知らせ、詳しい調査を依頼した。

これを受けた上田弁護士は徹底調査を進め、1987年に『ある北大生の受難―国家秘密法の爪痕』を刊行した。1993年にはビデオ『レーン・宮澤事件―もうひとつの12月8日』が制作された。こうした社会的な広がりの運動の中で、「宮澤・レーン・スパイ冤罪事件」が広く知られるようになり、北大もようやく2001年の刊行『北大の125年』で冤罪の事実と宮澤弘幸の名を北大史の中に記述したが、それはわずか十数行だった。

そして遅ればせながら、北大内部からの調査の機運も生まれ、2010年になって『調査報告=宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考―北海道大学所蔵史料を中心に―』(北海道大学大学文書館年報・第5号、2010年3月刊)が発表された。しかしながらこれも、大学文書館長である一学究が調査・発表した形をとったもので、北大当局としては腰の引けたものであった。

*『調査報告=宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考―北海道大学所蔵史料を中心に―』(北海道大学大学文書館年報・第5号、2010年3月刊)

2、妹・秋間美江子さんが名誉回復を要求

2012年秋、これら北大の対応と姿勢に、宮澤弘幸の妹・秋間美江子さんが正面から向き合った。当時85歳の秋間さんは、大切に保管してきた宮澤弘幸が北大時代に撮影した写真を記録したアルバムを北大に寄贈し、同席した友人の山野井孝有(のちに「真相を広める会」の代表)は「大学として正式に調査し、退学処置を撤回し、名誉を回復して欲しい」と要求した。

これに対し北大は、「調査はする」としながらも、宮澤弘幸の身分については「退学届」を出したので退学となっているとして腰を引き、退学届そのものは見つかっていないと答えた。

秋間さんのアルバム寄贈はマスコミも報道し、2012年師走総選挙後に発足した安倍第二次政権が秘密保全法を策動している動きとも対応して、北大OB、新聞労連有志の間で組織的な運動を開始する機運が高まり、2013年1月29日、札幌で「真相を広める会」が結成された。

「真相を広める会」は、同年2月、北大に対して最初の申入れを行った。その骨子は、①宮澤弘幸は北海道帝国大学学生であったことを確認し、これと矛盾する学籍簿等の記載を撤回する②宮澤弘幸の身分と名誉を損なったことに対し謝罪する③宮澤弘幸ら冤罪に屈しなかった関係者一同を顕彰する――というものである。【資料①】

これに対して北大は、学内再調査の結果、宮澤弘幸自筆の「退学願」が見つかったとして、5月30日、ボルダー在住の秋間さんに調査内容を説明するとともに、6月25日「真相を広める会」との交渉の席上でも同様の資料を提示した。【資料②】

2012年秋、秋間さんがアルバムを寄贈した際、「退学届はない」と回答していた北大が、その後再調査したことは評価できるが、その結果を副学長がボルダーに秋間さんを訪ねて手渡したということは、「退学願」をもって一件落着とし、大学側には何らの責任もないことを印象づける狙いがあったと思わせる。

しかし「真相を広める会」との交渉では、北大は、「二度と戦争を起こさせない」、そのために「事件を風化させないように努める」と表明した。「真相を広める会」は、ここを出発点に謝罪と責任明確化の運動を継続することにしている。

3、「宮澤賞」創設を提起

以後、「真相を広める会」は、「宮澤・レーン・スパイ冤罪事件」の真相を広く社会に知ってもらう運動に精力的に取り組み、東京では10月10日、札幌では10月13日に秘密保護法阻止の集会を開催し、秘密保護法強行可決後の12月8日には札幌の北大構内で集会を開いた。2014年2月22日の宮澤弘幸の命日には、新宿・常圓寺で追悼・顕彰と秘密保護法廃止を求める集会を持った。

こうした運動が発展する中で、北海道大学は2月、秋間美江子さんに「北海道大学宮澤記念賞」(仮称)を創設したいので了承をいただきたいとの文書を届け、同時に「真相を広める会」にも同様提示してきた。【資料③】

さらに3月、「北海道大学大学文書館年報」第9号に、井上高聡・文書館員名で、研究ノート「工学部学生宮澤弘幸について」を発表した。

*『研究ノート「工学部学生宮澤弘幸について」』(北海道大学大学文書館年報・第9号、2014年3月刊)

「真相を広める会」は、5月7日、一時帰国した秋間美江子さん同席のもとで北大との交渉を開いた。その結果、北大は、「宮澤事件は冤罪である」ことを明言し、①宮澤弘幸に関する歴史的な出来事を風化させない②大学文書館での井上論文は北海道大学としての見解に準じる③北大創基150年の正史刊行でも同趣旨の見解を記述する④既に北海道大学総合博物館において「宮澤・レーン事件」を伝えるパネルを展示している⑤同百年記念館でも宮澤氏についての展示を組む⑥寄贈を受けたアルバムについては大学文書館の独立館新築計画と合わせて常設展示コーナーを設ける――と回答した。なお「真相を広める会」としては「北大に瑕疵はない」とする井上論文にはいくつもの問題点があることを指摘し、そのまま正史に記述するのではなくさらに事実関係を検証してほしいと要望した。

「真相を広める会」は、北大が名誉回復の明言と顕彰に一歩踏み込んで来たことを評価し、「宮澤賞」創設には秋間美江子さんとともに同意した。

しかしながら、自大学の学生や教官が不当に検挙されたことに抗議もせず、長年無視してきたことへの謝罪を頬かむりし、永年にわたって事実関係の発掘・検証を怠ってきたことの責任については、一切触れていない。そこで「真相を広める会」としては、引き続き謝罪を求めるとともに、かつて戦時下にあっても外国人教師と北大生が心を通わせた貴重な経験を後世に伝えるために、北大構内の外国人教師官官舎跡地に「心の会の碑」(仮称)を建立する運動を開始している。

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